仙台の奥座敷 作並温泉。自然に囲まれた環境で多彩な湯めぐりが楽しめます。

作並温泉新着情報

2013/09/12 「東北こけしの話」

河北新報で取り上げられました「東北こけしの話」(高橋五郎さん)の記事をご紹介します。                                                                                                                                                                                                                                    <平成25年3月3日(日)の記事>                                                                                                                                                                                 宮城県の作並温泉に、幕末から明治10(1877)年近くまで、岩松直助という木地屋の一族がいて、木地玩具などを作っていた。このことは山形から作並に来て修業した小林家や、作並の古老たちからの証言から確かである。しかしながら、口伝などは皆無で、多くの研究家が調べたものの、作並木地業の実態は究明されなかった。                                                                                                                                                                  現在の作並こけしは、明治45(1912)年、平賀謙蔵(1887~1949年)が創始した。謙蔵のこけしは、形態こそ山形の流れに近いが、垂れ鼻の面描、蟹状の菊花模様は独特で、明らかに山形と異なる。彼の作った小寸物は細胴で、子どもが手に持って遊ぶには最適である。                                                                                                                                                                                                     謙蔵は創業当初、山形で習得したままのこけしを作ったところ、当初、平賀家に強い影響力があった岩松旅館の当主の亥之助から、作並こけしはそういうものではないと厳しく戒められた。亥之助が示した古いこけしを見本にして、作風を変えたという。                                                                                                                                                                                              それでも「作並系」と独立した系統に分類されることはなかった。謙蔵が山形の小林倉治の下で木地修行したので山形こけしの亜流と見なされることが多かったためであろう。研究家により、山形作並系、作並山形系など、変則的に分類された時期もあった。                                                                                                                                                                                                               謙蔵などの話から、作並に木地屋不在の間、どこからか作並こけしが供給され、温泉土産として「作並こけし」が売られていたことが知られる。その中の一人が仙台市青葉区芋沢に在住した木地屋、今野新四郎だったことが確認されている。新四郎のこけしは未確認で、どの系譜かも分からなかった。                                                                                                                                                                          ところが昭和56(1981)年、筆者は思いもしなかった一冊の古文書を発見した。伝説的な岩松直助が記したものである。詳しくは後述するが、追跡調査で新四郎など作並系工人の系譜が解明された。その流れにあるこけしの特徴が総括的に凝縮して、謙蔵こけしが今日の作並系として開花したと分かったのである。                                                                                                                                                  <平成25年3月10日(日)の記事>                                                                                                                                                                                                                                 作並温泉は、旅の僧、行基が養老5(721)年に発見したと伝えられ、古くから知られる。しかし、作並温泉が文献に登場するのは、安政4(1857)年に著された『仙台金石志』が最初のようだ。同書巻之十に、文政3(1820)年に大塚頼恒が撰した「宮城郡作並邑温泉坪之碑」の碑文が収められている。それによると、作並温泉が湯治場として開設されたのは寛政8(1796)年のことで、岩松旅館初代喜惣治が湯坪を整備し、浴舎を設けたという。その功により、喜惣治は湯守となった。湯守は源泉を管理し、湯治屋から撤収した入場料を、「湯銭」として藩に上納する役目だった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                           また、当時は温泉場に役屋物(税のかかる木地物や土産品)を置くことも定められていたので、作並でも開設当初から売店が置かれ、木地物などが売られていたと推察される。                                                                                                                                                                                                        前稿で触れた古文書にこけしなどさまざまな木地名称やその値段が記されていた。値段は南條徳右衛門が定めたが、辛未(文化8=1811年)に改正した旨が書かれている。辛未の年という時期には問題が残るが、この時代に作並にこけしなど木地玩具や生活用品を作る木地屋がいたことが明らかになった。                                                                                                                                                                            従来、歴史の中に深く埋没して全く分からなかった作並木地業とこけしの実態が解明され、作並温泉こそ、こけし発祥の地と目されるに至ったのである。                                                                                                                                                                                               作並のこけしは木地屋の岩松直助一族が明治初年に絶えてしまうが、その流れは仙台の愛子、折立、八幡町、芋沢、そして山形に伝わり、脈々と継承されている。                                                                                                                                                           発祥時の作並こけしは未発見でどのようなものであったか不明である。だが近年発見された明治25(1892)年に入手した書き込みのある古い作並系のこけしや、明治期の仙台こけし、山形の古いこけしの一群は形態的にかなり共通、類似した様式が見られ、これら産地の原点が同一だったことを裏付ける。                                                                                                                                                                                                                                   <平成25年8月25日(日)の記事>                                                                                                                                                                                                                                        昭和50(1975)年前後に、筆者は宮城県蔵王町遠刈田の名工、佐藤護(1979年没)から聞いた話を基に、遠刈田と作並の木地業の関わりを調べていた。だが、調査から得られたものは少なく、前進できずにいた。                                                                                                                                                                                                                   手掛かりは護の父祖の代に作並と取引があったということだけ。しかも『こけし辞典』出版後で、こけしは調べ尽くされ、発祥期を探る新たな資料発見は期待できないとする風潮が濃厚であった。                                                                                                                                                                                                         このような中で発見された、江戸期のこけしの存在を実証する鬼首の「長蔵文書」は、少々落ち込んでいた筆者の心を躍らせ、追究への熱を再燃させた。                                                                                                                                                           秋保、旧宮城町の古老や、かつて木地業に関わった家々を幾度となく訪ね、調査を重ねた。56年12月10日、明治42(1909)年まで木地屋をしていた仙台市芋沢の今野新四郎(1859~1924年)の遺族方で、偶然にも極めて重要な古文書を発見した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          当主の多利之助さんに、神棚に置かれた、二つの開かずの間の箱を見せてもらった。ほとんどは証文類や和綴じの書籍類で、木地に関するものは見いだせず、あきらめかけた。しかし、途中で投げ出すようでは失礼になると思い、作業を続けたところ、箱の底から「萬挽物扣帳」と記された大福帳が出てきた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  挽物という文字だけで気持ちが高まり、恐る恐るページをめくると、「人形」や「闇夜」という名称が続く。さらに、この文書を記したのは、伝説的に語り継がれてきた岩松直助であることが判明した。                                                                                                                                                 筆者はまさかのことに遭遇して体は震え、のどはカラカラ。夢ならばさめないでほしいと願うばかりで、言葉を発することさえできなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  発見した文書を後日、筆者は「岩松直助文書」と名付けた。直助文書は、エジプトの象形文字解読のきっかけとなったロゼッタ・ストーンのこけし版とも言えるものだった。こけしの発祥期に大きく近づく、まさに一級の資料と評価されることになる。                                                                                                                                                              <平成25年9月1日(日)の記事>                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                直助文書は作並温泉の木地屋岩松直助が、万延元(1860)年、弟子の小松藤右衛門に与えた木地の免許皆伝書である。藤右衛門は全く未知の人物だったが、後の追跡調査で、現在の仙台市青葉区愛子の木地屋だったことが判明した。小松家は今も屋号を木地屋という。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              藤衛門は通り名で、戸籍名は今朝右衛門(1883~89年)である。末弟惣五郎(1854~1902年)は兄から木地を学び、明治7(1874)年、20歳の時に村内の茂庭折立の庄司家に婿入りし、同地で木地業を開始。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            折立で営業したのは数年だけだが、この間、仙台高橋胞吉と、藤右衛門の弟子、作並の槻田与左衛門が職人を務め、芋沢の今野新四郎が惣五郎に弟子入りしている。新四郎は修業終了時、師匠から直助文書を渡され、独立後、明治42年まで村内の作並や定義、秋保などに、こけしや木地玩具類を作って卸していた。                                                                                                                                                                                                                                       直助文書の要点は次回に記すが、同書に岩松直助の師は南條徳右衛門と記され、後に実在の人物だったことが判明。これにより、徳右衛門-直助-藤右衛門-惣五郎-新四郎と続く古作並の師弟関係が明白になった。さらに系譜不明だった胞吉や与左衛門という重要後任との密接な関わりも明らかになった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 直助文書の発見直後、こけし研究の泰人、故西田峯吉氏は次のようにコメントした。-かつて著書で山形、作並を重要産地として挙げた。山形の小林一家、作並の平賀一家、仙台の高橋胞吉のこけしを見ると、関連をうかがわせるものの、それ以上、三者の関係をアタックする機会を持てずにいた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   土橋慶三、柴田長吉郎氏らが墓石を発見し、直助が実在したことを証拠づけたにとどまり、直助が木地屋で、こけし作者であったことまでの立証に及ばず、こけし産地としての作並はベールに覆われたままだった。直助文書はこうした謎を一気に解き明かすもので、こけし界最大の発見であろう-                                                                                                                                                                                                                                   <平成25年9月8日(日)の記事>                                                                                                                                                                                                                                                                                                          岩松直助文書の最大の特徴は、この文書が幕末期、実際にこけしなどを作っていた木地自身によって記されていたことにある。万延元年に書かれた文書は、こけし関連の文献として最古であるだけでなく、重要な内容に満ちている。詳細に説明すると長くなりすぎるので、要点を紹介する。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           表紙をめくると最初に人形(木地屋たちがこけしを表す専門用語で、遠刈田、山形で共通)が、小・相(間と同じ)中・大・大々人形の順に、製作の段取りを示す木取りの寸法が示されている。                                                                                                                                                                                                                                              続いて玩具の闇夜(ヤミヨ=小児のおしゃぶり)、けん玉、二色独楽などの独楽類が木取り寸法と併記されている。その後に44品目の生活用品類が、一部図面と共に描かれている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                 後半部に、修業証書のように、木地挽は維喬親王(伝説上の木地業の始祖)が箱根でご発業になったもので、その後、自分の師匠の南徳(南條徳右衛門)翁に相伝。自分もまた汝に相伝える。これは天下の秘業であるから決して他見他言してならない。付けたり(付け加えると)、この業を知るものは自分の兄弟が羽前(山形県)に二人、汝と共に四名である。                                                                                                                                                                                                                                                        右の通り相伝える。 以上  岩松直助(印)   万延元年申正月 小松藤右衛門殿                                                                           右は元文を現代文に要約したものである。そして末尾に製品名と改訂されたそれぞれの値段が記載されている。直助文書を発見した当初、筆者は天江富弥氏をはじめ三原良吉、菅野新一両氏から、こけし発祥の地は蔵王東麓にあり、遠刈田新地こそ最も古い産地と指導されていたので、文書発見後も発祥地は遠刈田と考えていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        しかし、この文書の木取りの工法は、かなりシステム化されていた。工法が成立するまでに少なくとも30年以上は経過していたはずで、作並には天保以前の文政期に確実にこけしが存在したと考える。作並が最古のこけし産地と特定するに至ったのである。

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